西尾市 「土豪屋敷土塁跡」
平成24年3月 西尾市西浅井の源空院へ枝垂れ桜を観に行く途次
樹木や竹に覆われていた「土豪屋敷土塁跡」が整備されているのに気が付いた。
以前の様子はこんなだった。
それが 今ではこのような状況になっている。
『「土豪屋敷跡土塁」 西尾市指定 史跡
延長280m 高さ7m 敷幅約12.5m 馬踏幅約4.2m
西浅井の丘陵には東西二つの城があり、西の古城を「清康御弟松平十郎三郎康孝」の居城と伝える。
この城は西浅井町字「古城」の辺りと推定され、道を隔てた南に堀と土塁に囲まれた土豪屋敷がある。この二か所はおそらく詰城と日常住まう居館であったと思われる。
屋敷跡に住む黒柳家の由来書によれば、黒柳右京亮政家の居館と伝え、松平康孝が来たため屋敷を明け渡して屋敷前に一時住んだという。
現在、黒柳家二屋敷を囲繞する土塁には樹木や竹が密生し、土塁の外、北側に幅約10mの濠の一部が残存している。また、東側丘陵中腹の浅井西城推定地には所縁の八幡宮が祀られる。
平成二十一年三月 西尾市教育委員会 』
現地案内書にある 清康御弟松平十郎三郎康孝とは 松平6代信忠3男康孝のことである。
松平6代信忠には3人の子があった。
嫡男清康は大永6年(1526)安祥から岡崎に居城を移し三河の統一を成し遂げた。しかし天文4年(1535)尾張守山城攻撃の陣中で家臣に切られて没した。(森山崩れ)
次男信孝。3男が康孝である。
次男信孝は合歓木を領し 康孝は三木と浅井の地を領した。
信孝と康孝は兄清康の三河統一への戦を助けて戦った。
兄亡き後 岡崎城を出ていた継嗣広忠の帰還には次兄信孝と共に功あった。
しかし 天文11年病を得て没してしまった。
康孝の死後 その子廉定が早世したため所領は兄信孝に併呑されてしまった。
康孝の墓は 土豪屋敷の北西200mほどの源空院にある。
源空院は康孝開基の寺で 枝垂桜の名所である。
花の時期には大勢の客で賑わうが 墓に詣でる人はほとんどいない。
松平十郎三郎康孝 天文11年(1542)3月18日病死 法名 宝珠院礼翁善忠
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(平成20年撮影)
(最近 整備された)
2012.04.11作成